最も驚いたのは、ハイフィンガー奏法が日本で単に遅れて広まったのではなく、ヨーロッパで答えが出た後に、日本でむしろ極端化していったという事実である。

論文によれば、現代のピアノ奏法の基礎は、すでに1830年代のショパンやリストの時代に築かれていた。一方、指を曲げて高く上げるハイフィンガー奏法は、ツェルニー時代の指奏法を引きずったまま、重くなる鍵盤や厚みを増すピアノ曲に折衷的に対抗する手段として、主にアカデミズムの世界で広まったものだという。

二十世紀初頭には、ヨーロッパでは「音楽的にも身体的にも百害あって一利なし」と批判され、姿を消していった。

ここで思い出されるのが、ショパンとカルクブレンナーの逸話である。1831年、ワルシャワからパリに出たショパンは、当時ピアノ界の頂点にいたカルクブレンナーの演奏に深く感銘を受けた。カルクブレンナーはショパンに数年間の弟子入りを勧めたが、ショパンは周囲の助言もあってこれを断り、独自の道を歩むことになる。

カルクブレンナーは、手首を固定して指で弾く古い奏法の代表格だった。論文でも、ショパンは手首を固定する古い奏法を完全に否定した最初期のピアニストの一人とされている。弟子入りを断った若者が、指を鍛える奏法とは違う、腕全体の重みを使って歌わせる奏法を生み出した。そう考えると、ハイフィンガー奏法の限界は、ショパンがパリの地で選択した時点で、すでに明らかだったのではないだろうか。

それなのに日本では、「指を高く上げて叩く」ことが強調されるようになったのは明治・大正の黎明期ではなく、昭和に入る頃からだった。戦後にはさらに拍車がかかり、「指を鍛える」というスローガンのもとで多くの学生が修練に励んだ。晩年に来日したピュイグ=ロジェが、日本のピアノ教育はヨーロッパで起きた重要な進歩に従っていないと指摘していたことも印象深い。

著者が挙げる独自の発展の背景

  • ◆ 師匠の「型」を守る日本の伝統芸能的な継承のあり方
  • ◆ 手を固定して指を上下させる単純な動きがマニュアル化しやすく、教えやすいこと
  • ◆ 速いパッセージをミスなく弾く「命中率」の高さを重んじた、技術至上主義

重力奏法が音色やフレージングの自由さと引き換えにミスの危険を負うのに対し、ハイフィンガー奏法は確かに合理的な面を持っていた。ただ、その合理性は音楽を「歌わせる」ことを切り捨てることで成り立っていたように思える。

そこで気になるのが安川加寿子である。パリ音楽院でラザール・レヴィに学び、1937年に首席で卒業した彼女は、肩や腕、手首の力を抜き、自然にのばした指で流れるように弾いた。当時の評論家はその弾き方を「草書体」、井口基成の弾き方を「楷書体」にたとえている。レヴィの系譜の「のばした指」は、指の腹でタッチするため、ショパンやドビュッシーのレガートを無理なくなめらかに弾けるのだという。

しかし当時の日本では、「しっかり固く弾く」ことがテクニックと見なされ、安川門下は「やわらかいがテクニックが弱い」という風評にさらされた。受験やコンクールでも評価されにくかったという証言は、読んでいて悔しさすら覚えた。

たらればになるが、もしあの時代に安川の系譜が主流になっていたら、と想像せずにいられない。ショパン自身が、カルクブレンナーの教えを離れて見つけた奏法こそ、手首と腕を柔らかく使い、指の腹で歌わせるものだったからだ。個人的には、ショパン国際ピアノコンクールの第1位が日本人の中から出ていたのではないかと思う。

もちろんこれは一つの想像にすぎない。論文は、井口基成が安川を個人的には高く評価し、二人の仲も良かったことも伝えている。対立を煽ったのは、個人ではなく、周囲の通念と「二大派閥」という見立てだった。奏法をめぐる悲劇の本質は、一つの型を絶対視し、更新も批判もできなくなる教育のあり方にあったのだと、この論文は教えてくれる。